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吉田真里子は生牡蠣の夢を見るか?〜ブレードランナー私的論/その4

(前記事からの続きです)

 
もうひとりの神


 「ブレードランナー」公開から丁度十年目の92年に、リドリー・スコット監督自身
の編集によるバージョンが公開された。「ディレクターズカット〜最終版」と称された
この映画の体裁は、その後何の関係も無い凡百の他の映画、果ては本国のC級TVドラマ
に至る迄夥しい数の模倣を生む事になるのだが、それはまあそれとして。

 1カットの秒数やテンポ、間合い等、細かく見て行けばかなりの違いがあるこのバー
ジョンにおいて、明確に新しく加えられたカットは只一箇所だけである。

 ピアノに凭れ、鍵盤を爪弾くデッカード〜彼にオーバーラップして、森の中を疾走す
るユニコーンのビジョンが挿入されるカット。「ディレクターズカット」公開当時、こ
のカットだけを論って、「デッカードはレプリカントだった」等と短絡的且つ飛躍に過
ぎる戯言を放言する輩が数多く頻出した事は未だ記憶に新しいところではあるが(取り
分けディックの諸作品を多数翻訳している大森望氏が、おそらく外国の評論からの引用
なのであろうがこの事を記し、断言はしない迄も他の見方を全くしていない事に対して、
筆者は深い慙愧の念に耐えない)、このカットはデッカードがレプリカントであるかも
しれないといった事柄を示唆するものでは無い。
 ロイ・バッティ以外に、もうひとりの神たる者が存在する事を暗示しているのだ。

 エドワード・ジェームス・オルモス演じるガフがそれである。

 先の意見は、ラストにガフが廊下に置いて行ったユニコーンの折り紙細工を指して、
「デッカードの記憶をガフが知っていた」→「デッカードの記憶は模造、人工の植え付
けられたものだ」→「だからデッカードはレプリカントである」と言った発想だったの
であろう。だが、デッカードがレプリカントではこの映画自体が全く成立し得なくなっ
てしまう。おそらくは原作で描かれるシークエンス〜デッカードが、自分もまたアンド
ロイドなのでは無いかと疑い、苦悩する部分に引き摺られてそう思ってしまったのであ
ろうが。
 原作との比較もまた重要な作業である。この文書に於いても後に少しだけ触れる事と
するがこの場合は映画の中だけの材料で考える事としよう。

 劇中、ガフは三つの人形を造ってみせる。
 一つは警察署内、灰皿に捨ててあった紙切れから「鳩」を。
 二つ目は、ロイ達が住んでいたアパートの中で、マッチ棒を使って「人間」を。
 そして三つ目は、デッカードのマンションの廊下で、銀紙を使って「ユニコーン」
を。
 「鳩」は、ロイ・バッティの昇天を余地暗示するものとして捉える事が出来る。
或いは神の使い〜精霊の存在を示唆するものとして。

(注;監督リドリー・スコットの実弟トニー・スコットの映画1作目の「ハンガー」
に於いても、クライマックスで鳩が使用されている。不死の存在である吸血鬼、彼女
の虜となり束の間の長寿を約束された「恋人たち」、沢山の鳩が飛び交う中、吸血鬼
は彼らによって「転落」し、地に臥してその肉体は急速に老衰化する。邪悪な存在で
ある吸血鬼は、間近に存在する鳩と異なり「昇天」出来ず、かといって完全な「死」
すら叶わず、屋上の片隅の棺の中で最後の恋人の名を呼び叫ぶ、だけの存在となって
しまうー。
 その後、トニー・スコット自身が転落死を選んでしまう結末は皮肉であり、何とも
もの哀しい気持ちになってしまう。)

 「ユニコーン」、これは勿論途中でデッカードが見たビジョンと連関はする。だが
ガフがデッカードの記憶を知っていたから、では無い。
「ユニコーン」はまた不老不死〜幸福の象徴として表現されるものであり、それの出
現を予め知っていたのはデッカードの方なのだ。

 ガフがデッカードの記憶〜夢を知っていたのではなく、デッカードがガフの行動を、
また、最期の自分達の行く末、未来をも同時に予知・予感していたのである。

 そしてまた、ガフの存在ーもうひとりの神としての存在をも。

 デッカードがユニコーンを固く握り締め乍ら頷くのは、その事に気付いたからに他
ならない。

 とするのならば、二つ目の「人間」はまさしく造物主が自らを模って創造した「人
類」を示唆するものになるのである。(一番最初に創造した人間ーアダムを明確に表
現するように、だからこの人形には男根が付されている)
 そしてまた、それがロイ・バッティの「神」とは違う点なのだ。只昇天し、デッカ
ードを置き去りにして行くロイとは異なり、明らかなる神の刻印〜徴を残して去って
行くガフの。

 ロイ・バッティがキリストであるならば、ガフは全てを創造した造物主として位置
付けられるのである。


糧となるもの


 原作「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」に関してはかなり詳細に渡る分析が
国内外を問わず成されているので多くは触れないでおく。此処では、原作と映画との
差異を比較検討してみる。

 映画が原作と異なる点は多いが、原作にあり、映画に全く登場しない要素として、
「デッカードの妻イーラン」、「ペンフィールド情長オルガン」、「マーサー教」、
「共感ボックス」、「バスター・フレンドリー」等が挙げられる。また、原作は、
賞金稼ぎであるデッカードと、地球残留者のイジドア(映画ではセバスチャンに相当
する人物)、二人の主観が交互に描かれて進展して行く。

 デッカードがアンドロイドを追跡して行く「仕事」と、妻イーランのいる「家庭」
とか完全に隔絶されて描かれている構成は、映画においてロイとレイチェルが隔絶
した存在である要素に繋がって行く。
原作でのデッカードの妻イーランは、映画においてレイチェルに変貌させられたと
いう訳だ。よって、冒頭で啀み合っていた二人が、ラストにおいて再び理解し合う
様が、デッカードとレイチェルとが同一画面に並ぶカットに繋がるのである。

 原作におけるマーサー教ー。この宗教の存在によって、デッカードがアンドロイ
ドを処理する原動力になっている「賞金」を何故欲するのかが明瞭となる。原作の
世界では、マーサー教の教示の一つ、「生類の尊重」によって動物を飼う事が社会
におけるステイタスであり、生き甲斐、生きる事の意味に迄なっているからである。
アンドロイドを処理すれば賞金が手に入り、絶滅寸前の、それ故所有する事により
この上ない優越感充足感に浸れる「山羊」を飼う事が出来るから、だからそれ故に
デッカードは躍起になってアンドロイドの追跡を始めるのである。

 比して、映画ではどうだろうか。確かに飼育されている動物(人工生物も含めて)
は沢山出て来るが、原作における程の重要な意義は見出せない。少なくとも、人々
が生きる糧とする程の存在としては描かれていないのだ。

 また、マーサー教自体は確かに映画では全く登場しないが、原作ではそれ程重要
な役割ではなかったロイ・バッティと、原作には出て来ないガフ〜ふたりの神とし
て、その痕跡を見て取る事が出来る。デッカードが共感ボックスを用いて体験し、
クライマックスで実体験する教祖マーサーの苦行は、ロイに追われ、苦痛を味わう
映画でのデッカードと連関する。原作での「砂漠を登る」行為が、映画では「ブラッ
ドベリビルを登る」行為に置換しているという訳だ。
また、デッカードがマーサーと一体化し、ヒキガエルを発見する「奇跡」は、映画
ではユニコーンの折り紙細工を見つける〜未来を暗示していたビジョンの実現とい
う「奇跡」に変わっているのである。

 そうなると原作のどんでん返し、発見したヒキガエルが実は人工物であった事、
だが其処に確かに「生命」を見い出し、幸福の内に眠りにつくデッカードは、映画
において幻像として見た本物とは全く異なる、単なる銀紙細工のユニコーンに「未
来」を見い出したデッカードにアレンジを施されたとも言えるだろう。

 では、映画「ブレードランナー」において人々がしがみつき、糧としているもの
は果たして何か。

 「写真」であり、それに纏わる「記憶」〜「過去」である。

 レイチェルは「過去」の証として、幼い頃の自分と母親とが写っている写真を、
ロイ・バッティ達は、自分達が短い期間とはいえ暮らしていたアパートの室内の
写真を、それぞれ大事に抱えているのである。只眺める時にだけ、過去の一時期、
一事象が再現される写真を。それは、人間たるデッカードもまた同じなのだ。
彼もまた、夥しい数の写真をピアノの楽譜と交えて掲示しているのだから。

 レイチェルの写真は、実際にデッカードが眺めたカットで「動画」として動き
出している。母子にかかる木の枝の影が揺れ、鳥の囀りが聞こえて来るのだ。
正しく、記憶の再現として。


そして、元型へ


 結果として映画「ブレードランナー」は、それ迄の所謂SF映画なるジャンル、
近未来を描く映像の流れを全く変えてしまった。
「薄汚れたバロック、ロココ調のくすんだ建造物」、「退廃的で不衛生な未来
都市」ー80年代をやはり代表する文化の潮流であるサイバーパンクなる分野
との連関も数多く語られ、小説、映画、その他への影響の波及は現在に至るも
確実にあり、正しく計り知れないものがある。おそらくはこれからも「ブレー
ドランナー」的ギミックに溢れた代物は膨大に生産量産され得るであろう。

 だが、あらゆる意味においてこの映画を超越、逸脱する作品は絶対に出現し
ない。筆者はこの場を借りてそう断言しておく。例え、技術的にダグラス・ト
ランブルの構築した映像を凌駕するSFXを駆使しようとも、シド・ミードが描
いた未来世界を更に発展させたビジョンを具現化しようとも、ハリソン・フォ
ードやルドガー・ハウアー以上の名優を起用しようとも、「ブレードランナー」
を超える映画は絶対に作り出せない。

 それは、この映画が原作、脚色脚本、美術、特撮技術、役者、音楽、その他
全ての要素が見事に融合され、そして80年代初頭という時代背景も手伝って
得た、正に奇跡の如きものだからである。

「ブレードランナー」を超越する映画が現れるとすれば、これらの要素が全て
兼ね備えられなくてはならない。そして、それはおそらく不可能な事なのだ。
「ブレードランナー」を意識すればするほど、その映画は単なる模倣、類型に
陥ってしまうのだから。あるとすれば、それは「ブレードランナー」で描き出
された世界観とは全く異なるものを最初から構築しなくてはならない。

「暗い近未来の退廃的な映像」ではない何かを。同時に、「ブレードランナー」
以前のSF映画が描き続けて来た「明るく清潔な近未来のイメージ」とも異なる
ものを。三つ目のビジュアルを発見し、その背景に見合った世界観を有するキャ
ラクターを配置し、映像に「近い将来、必ずや実現化するであろう」という予感、
リアリティを具現化させ得る映画ー。

 そんな映画が創り出される迄、少なくとも「2001年宇宙の旅」から「ブレ
ードランナー」迄の年月、14年は待つ必要があるだろう。それ迄、そしてそれ
以後もこの映画は確実に映画史に残る金字塔として聳える事となる筈である。
 
                               <了>

補足;現在2017年、「ブレードランナー」の続編である「ブレードランナー
2049」が公開された。前作から実に30年。正直一回のみの鑑賞では、世界
観の把握に迷うばかりだが、少なくとも取るに足らないパート2、という代物で
は無い事だけは確かかもしれない。
そしてこれを記してから以降、特撮技術はコンピューターグラフィックスにより
飛躍的な進化を遂げた。もうカメラやセットの限界を考慮苦慮する必要は無い。
だが、未だにSF映画は「ディストピア」の呪縛からは結局逃れられない儘なの
では無いか?ユートピアかディストピアかの二者択一、二元論自体にもはや意味
が無い位に、我々の未来が決して明るく無いとのと同様に。
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