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吉田真里子は生牡蠣の夢を見るか?〜ブレードランナー私的論/その3

(その2からの続き)

 舞台は2019年のロス・アンジェルス。始終酸性雨が降り続け、空を見る事は
叶わない。劇中唯一、⑤において太陽が垣間見えるシーンがあるにはあるがこの場
面でも陽の光は空を全く均一に染めており、距離感というものを感じさせない点で
は雨が降っている暗闇と同じ意味合いなのだ。
 ホリゾントで覆われた、あたかも箱庭のような都市。息が詰まるような密室の空
間ー。
「ブレードランナー」の舞台となるのはそんな閉ざされたLAの街、だけなのである。

 だからこそ、映像物語作家である筈のリドリー・スコット監督はこの映画を文字に
よる状況説明から始めるという「暴挙」を敢えて行ったのだ。文字の部分を映像で描
こうとすれば、それは「デッカードを中心とした二つの世界」から著しく外れた方向
に話を拡散させてしまうからである。

 あるいは、「文字による説明」は映像や科白ではどうしても描写不可能な要素を観
客に伝達させる為に止む無く取られた手段とも捉える事が出来る。綴られる言葉、最
後の二行がそれだ。

  This was not called execution.
   It was called retirement.

 ”それは「処刑」では無く、「処理」と称された”

 レプリカントを単なる機械、道具としてだけ扱う状況を実に的確に表現しているこの
二行は、しかし二回の映画公開時においても、三回バージョンを変えて発売されたビデ
オにおいてもついぞ翻訳される事は無かった。

 それはまた映画の発端となる「事件」についても同様だ。

 何故、ロイ・バッティ達によるシャトル奪取、地球への侵入のシークエンスは描かれ
なかったのか?
 
 この疑問に対する答えも、「閉塞された密閉空間」と言う観点から見れば容易に推察
する事が出来る。シャトル奪取のシーンを描いてしまえば、LA以外の世界を構築しなけ
ればならず、「この街」以外の世界が確実にある、という意識が確固たる物となってしま
う。それでは地の底のような街の存在自体が薄らいでしまうからだ。

 閉ざされた街で、よたよたと独りで這い回る人達ー。彼らはその閉鎖された場所の更に
閉じ込められた場所において「出会い」を成すのである。


入る男、出る男


此処では、登場人物の行動の性質、指向性について細かく分析してみる。

 デッカードの行動を追ってみると、ある一定の法則を認める事が出来るので
ある。

 デッカードは屋外から寿司屋の屋台(バーと称すべきか?)に「入り」、ガフ
のスピナーに「入り」、警察署へ「入り」、タイレル社へ「入り」、レオン達が
暮らしていたアパートに「入り」、浴室へ「入り」、また別のアパートに「入り」、
トンネルの中に「入り」、自分のマンションへ「入り」、エレベーターの中に「入
り」、部屋に「入り」、手に入れた写真の部屋の奥深くまで「入り」、一応は屋外
ではあるのだが俯瞰のショットが二階くらいの高さから始まる為夜空が全く映って
おらず、よって「地下街」のような印象を受ける街を彷徨い、水槽越しに複製蛇職
人の店に「入り」、バーへ「入り」、バーの中の通路でゾラと出会い彼女の楽屋に
「入り」、逃げた彼女を追って人混みの中へと「入り」、ゾラを処理し、雪降る
ディスプレイの中に「入り」、レオンと格闘した後、再び自分の部屋に「入り」、
ブラッドベルビルの中に「入り」、ロイとの対決はビルの屋上〜屋外へと舞台が
移動するが、出口、脱出口が無いという点で「閉ざされた空間」に「入った」のと
同じである、そして三たび部屋に「入り」、そしてレイチェルが入ったエレベータ
ーの中へと「入って」行くのだ。

 デッカードは必ず、誰かが存在する、或いは存在した空間へと入って行くのであ
る。彼は前もって何処かにいて誰かが侵入して来るのを待つ、或いは引き入れる行
動は取っていない。捜査からマンションに戻り、入ったエレベーターの中には「予
め」レイチェルが中にいたし、ラストにおいてもレイチェルが先に入ったエレベー
ターの中に入るのである。また、部屋の外へ出ようとしたレイチェルを、開けたド
アを閉める事によって阻むのだ。それはまるで、彼女を外に出さないようにすると
いうより、「中に入って来た行動」を維持しようとするのが目的であるかのように。





 そう考えれば、ロイに追われたデッカードが何故ビルの外に出なかったのか、わざわざ
上の階に昇って自らを追い詰める行動を取ったのか、理解出来るような気がする。「外へ
出る」スタンスを取れない故、「中へ」逃げるしか選択の余地が無かったからだ。

 対して、ロイ・バッティはどうだろうか。

 彼の取る行動で、他の誰とも著しく異なるアクションが三つある。

 その一つ、⑦〜ロイが初めて登場するシーンで彼は電話ボックスらしき中から「外に」
出て来る。そう、ロイの初登場シーンは彼が外へ出て来る形を取らなければならなかった
のだ。「中へ入る」デッカードに相反して、「外に出る」ロイ・バッティー。
だからこそ、冒頭シーンにおいてホールデン刑事のいる部屋に「入って来る」のはロイ・
バッティであってはならないのである。

 ロイ・バッティが「外に」出て来てレオンと対峙し、二人で複製眼球職人の所へ行く
間、カメラは何故か二人から離れて長々と横方向への移動を続ける。そこで映されるも
のは、デッカードが徘徊する街とは打って変わって閑散とした場所であり、更に移動す
るカメラは決して喧騒とは呼べない、十数台の自転車の集団を捉える。この、広い空間
を描写するシーンを挿入する事によって、ロイが「外に」出て来たという行動を更に強
調せしめる効果が生まれるのである。

 二つ目として、ロイが「壁」を破る行為が挙げられる。クライマックス、格闘シーン
において彼は壁を破り、そこからデッカードの腕を引き入れて指を折っている。また、
最上階にいるデッカードを追って、彼は頭で壁を破っているのだ。直ぐ横には鍵が掛か
っていないドアがあるにも関わらず、である。その後窓を蹴破り、ビルの天井を破壊し
て屋外へ出て来るのは言わずもがなだ。更なる強引な手段を駆使して、ロイ・バッティ
は「外へ」、「外へ」出て行くのだ。他者との境界線を超えて。

 三つ目は、彼が劇中唯一天を仰ぎ、空へと「昇天」していく存在になる点である。

 ㉕において、タイレル社長とセバスチャンを殺害した後、エレベーターで再び降下
して行くシーンがある。此処において彼はエレベーターの天窓を仰いで「星空」を
見るのだ。実際は暗闇に雨垂れの水滴が煌めいているだけなのだが、ロイの主観では
おそらくそれは外宇宙で眺めた満天の宇宙と連関する筈である。デッカードもプリス
も、夜空を見上げるかのようなアクションはするが、その視線は宣伝の飛行船の空々
しい姿と美辞麗句を並べ立てた言葉に向けられた冷ややかなものであり、決して見え
ない星空を見出そうという意味は込められていない。

 そして、鳩に姿を変えたロイ・バッティの「昇天」ー。

 ロイが自らの掌に釘を打ち付ける行為は、キリストの磔を暗示するものだろうか。

 デッカードを残し、只一人高みへとシフトアップするロイ。行き先となる場所は、
ビルと煤煙の間から確かに垣間見える「青空」なのである。
 (注;このカットは「ミステイク」として最終版では闇の雨空に「修正」された。
だが此処は、奇跡に立ち会ったデッカードの主観として青空の方が適しているのでは
ないか、筆者はそう考える。)

 此処において、ロイ・バッティは全ての生物〜有機体の枠を超越して「神」へと
成り得るのだ。ロイがデッカードを「救済」したのは、だから至極当然の行為である
と言える。神たる存在となる者が地を這う羊たる者を「見殺し」にする筈は無いのだ
から。そう考えると、確かにロイ・バッティはデッカードに必要以上の不当な責め苦
を与えてはいない。
 指を折った行為は、科白でも説明されるように二人のレプリカント〜ゾラとプリス
を殺害した事に対する「罰」なのである。

 だからこそ、デッカードと同一の立場である観客〜筆者は、独り取り残され地上で
また這い回るしか行動出来ない我々は、ロイ・バッティに対して言いようの無い奇妙
な感情を抱いてしまったのだ。どうにも到達出来ない、乗り越えられない存在〜神に
対する「畏敬」とも呼び得る念を。
 
(次の記事に続きます‥)
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