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公開翌週11月2日、そして一週間後の9日に観て来ました。

以下ネタバレありです。

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吉田真里子は生牡蠣の夢を見るか?〜ブレードランナー私的論/その4

(前記事からの続きです)

 
もうひとりの神


 「ブレードランナー」公開から丁度十年目の92年に、リドリー・スコット監督自身
の編集によるバージョンが公開された。「ディレクターズカット〜最終版」と称された
この映画の体裁は、その後何の関係も無い凡百の他の映画、果ては本国のC級TVドラマ
に至る迄夥しい数の模倣を生む事になるのだが、それはまあそれとして。

 1カットの秒数やテンポ、間合い等、細かく見て行けばかなりの違いがあるこのバー
ジョンにおいて、明確に新しく加えられたカットは只一箇所だけである。

 ピアノに凭れ、鍵盤を爪弾くデッカード〜彼にオーバーラップして、森の中を疾走す
るユニコーンのビジョンが挿入されるカット。「ディレクターズカット」公開当時、こ
のカットだけを論って、「デッカードはレプリカントだった」等と短絡的且つ飛躍に過
ぎる戯言を放言する輩が数多く頻出した事は未だ記憶に新しいところではあるが(取り
分けディックの諸作品を多数翻訳している大森望氏が、おそらく外国の評論からの引用
なのであろうがこの事を記し、断言はしない迄も他の見方を全くしていない事に対して、
筆者は深い慙愧の念に耐えない)、このカットはデッカードがレプリカントであるかも
しれないといった事柄を示唆するものでは無い。
 ロイ・バッティ以外に、もうひとりの神たる者が存在する事を暗示しているのだ。

 エドワード・ジェームス・オルモス演じるガフがそれである。

 先の意見は、ラストにガフが廊下に置いて行ったユニコーンの折り紙細工を指して、
「デッカードの記憶をガフが知っていた」→「デッカードの記憶は模造、人工の植え付
けられたものだ」→「だからデッカードはレプリカントである」と言った発想だったの
であろう。だが、デッカードがレプリカントではこの映画自体が全く成立し得なくなっ
てしまう。おそらくは原作で描かれるシークエンス〜デッカードが、自分もまたアンド
ロイドなのでは無いかと疑い、苦悩する部分に引き摺られてそう思ってしまったのであ
ろうが。
 原作との比較もまた重要な作業である。この文書に於いても後に少しだけ触れる事と
するがこの場合は映画の中だけの材料で考える事としよう。

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吉田真里子は生牡蠣の夢を見るか?〜ブレードランナー私的論/その3

(その2からの続き)

 舞台は2019年のロス・アンジェルス。始終酸性雨が降り続け、空を見る事は
叶わない。劇中唯一、⑤において太陽が垣間見えるシーンがあるにはあるがこの場
面でも陽の光は空を全く均一に染めており、距離感というものを感じさせない点で
は雨が降っている暗闇と同じ意味合いなのだ。
 ホリゾントで覆われた、あたかも箱庭のような都市。息が詰まるような密室の空
間ー。
「ブレードランナー」の舞台となるのはそんな閉ざされたLAの街、だけなのである。

 だからこそ、映像物語作家である筈のリドリー・スコット監督はこの映画を文字に
よる状況説明から始めるという「暴挙」を敢えて行ったのだ。文字の部分を映像で描
こうとすれば、それは「デッカードを中心とした二つの世界」から著しく外れた方向
に話を拡散させてしまうからである。

 あるいは、「文字による説明」は映像や科白ではどうしても描写不可能な要素を観
客に伝達させる為に止む無く取られた手段とも捉える事が出来る。綴られる言葉、最
後の二行がそれだ。

  This was not called execution.
   It was called retirement.

 ”それは「処刑」では無く、「処理」と称された”

 レプリカントを単なる機械、道具としてだけ扱う状況を実に的確に表現しているこの
二行は、しかし二回の映画公開時においても、三回バージョンを変えて発売されたビデ
オにおいてもついぞ翻訳される事は無かった。

 それはまた映画の発端となる「事件」についても同様だ。

 何故、ロイ・バッティ達によるシャトル奪取、地球への侵入のシークエンスは描かれ
なかったのか?
 
 この疑問に対する答えも、「閉塞された密閉空間」と言う観点から見れば容易に推察
する事が出来る。シャトル奪取のシーンを描いてしまえば、LA以外の世界を構築しなけ
ればならず、「この街」以外の世界が確実にある、という意識が確固たる物となってしま
う。それでは地の底のような街の存在自体が薄らいでしまうからだ。

 閉ざされた街で、よたよたと独りで這い回る人達ー。彼らはその閉鎖された場所の更に
閉じ込められた場所において「出会い」を成すのである。


入る男、出る男


此処では、登場人物の行動の性質、指向性について細かく分析してみる。

 デッカードの行動を追ってみると、ある一定の法則を認める事が出来るので
ある。

 デッカードは屋外から寿司屋の屋台(バーと称すべきか?)に「入り」、ガフ
のスピナーに「入り」、警察署へ「入り」、タイレル社へ「入り」、レオン達が
暮らしていたアパートに「入り」、浴室へ「入り」、また別のアパートに「入り」、
トンネルの中に「入り」、自分のマンションへ「入り」、エレベーターの中に「入
り」、部屋に「入り」、手に入れた写真の部屋の奥深くまで「入り」、一応は屋外
ではあるのだが俯瞰のショットが二階くらいの高さから始まる為夜空が全く映って
おらず、よって「地下街」のような印象を受ける街を彷徨い、水槽越しに複製蛇職
人の店に「入り」、バーへ「入り」、バーの中の通路でゾラと出会い彼女の楽屋に
「入り」、逃げた彼女を追って人混みの中へと「入り」、ゾラを処理し、雪降る
ディスプレイの中に「入り」、レオンと格闘した後、再び自分の部屋に「入り」、
ブラッドベルビルの中に「入り」、ロイとの対決はビルの屋上〜屋外へと舞台が
移動するが、出口、脱出口が無いという点で「閉ざされた空間」に「入った」のと
同じである、そして三たび部屋に「入り」、そしてレイチェルが入ったエレベータ
ーの中へと「入って」行くのだ。

 デッカードは必ず、誰かが存在する、或いは存在した空間へと入って行くのであ
る。彼は前もって何処かにいて誰かが侵入して来るのを待つ、或いは引き入れる行
動は取っていない。捜査からマンションに戻り、入ったエレベーターの中には「予
め」レイチェルが中にいたし、ラストにおいてもレイチェルが先に入ったエレベー
ターの中に入るのである。また、部屋の外へ出ようとしたレイチェルを、開けたド
アを閉める事によって阻むのだ。それはまるで、彼女を外に出さないようにすると
いうより、「中に入って来た行動」を維持しようとするのが目的であるかのように。





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吉田真里子は生牡蠣の夢を見るか?〜ブレードランナー私的論/その2

(前の記事より続く)

 様々な出来事、経緯を経て、ラストで漸く理解し合うデッカードとレイチェルー。

 では、デッカードと他の者との関連は?

 ②〜⑥、⑪〜⑳、㉖〜㉚と、主役なのだから当然の事だがデッカードが会話を
交わすシーンは多い。ガフ、ブライアン署長、レイチェル、タイレル社長、鱗を
調べる老婆、複製蛇職人、タフィー・ルイス、寿司屋の親父、酒屋の女主人、ゾ
ラ、レオン、そしてロイ・バッティー。10人以上と言葉を交わすデッカードは、
しかしその殆どと同一画面にすら登場せず、例え同じ場面に現れたとしてもそれ
はストーリーの展開上、演出上「止むを得ず」の処置に過ぎないのだ。レオンと
は出会いしなに格闘に移行するし、ゾラとのシーンでは楽屋の中を頻繁に歩き回
る彼女に合わせてカメラが移動する際に「たまたま」ゾラとデッカードとを同一
のファインダーに捉えたに過ぎないのである。また、ゾラに話しかけるデッカー
ドのセリフは即興にしてもとても腕利きの刑事とは思えない稚拙で突飛なもので
あり、コミュニケート(あるいはゾラがレプリカントにまちがいないか探りを入
れる為の)を前提としたものでは無い事は明らかである。

 

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吉田真里子は生牡蠣の夢を見るか?〜ブレードランナー私的論

 20171101ketty-ke表紙
こちらの文章は、1995年頃に1年余をかけて製作した個人誌「KETTY-K」に寄せた
ものの抜粋です。
 当時発表された歌手・吉田真里子のアルバム「匿名希望」に感銘を受け、自分なりに
楽曲を分析論説を試みたもので、その一端として(成り行きで)映画ブレードランナーに
関するテキストも長々と記すことになりました。

 実際は、2004年頃に一度、当時更新していたホームページに全テキスト掲載したの
ですが、そのデータ自体今は喪失してしまったので、再度原本から打ち直してこちらにて
再発表させていただきます。

 尚、現時点では明らかな事実誤認、明らかに間違った言い回し誤用、差別的表現も若干
あろうとは思いますが、過去の自分が記したものとしてあからさまな誤字脱字以外はその
ままにしておきますので悪しからず。
 

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「あんまりよう」と読むが意味は無いです。

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